ふるきのガベージコレクション2

脳内を通り過ぎたイメージの残骸の記録

小供、一生懸命

  中学1年の国語の試験で、子供と書くところを"小供"と書いた。返却の時に誤記を指さされて「どうした?」と強めの語調で注意された。校内暴力で大荒れだった学校で、態度や口調が厳しい先生が多かったが、その若い女の先生の言葉には、残念のニュアンスも感じた。 
  "小供"と書いた理由は、当時、夏目漱石の「坊っちゃん」や「我輩は猫である」を読んでいたから。口語体の日本語が形作られる途上だった当時は、漢字の使い方も確定していなかった。”小供”だけでなく、”一生懸命”という用語も使われている。どちらも今の漢字テストでは誤りにされるのだが、高々100年ほど前までは用語が固まっていなかったのだ。 
  こういう事実を知ってから、正しい日本語とか漢字検定とかに興味がなくなった。辞書さえ疑いながら引くようになった。言葉は常に動いていて、その瞬間の多数派の使われ方がより正しく伝わりやすいという点で相対的に正しいとは言える。その多数派形成に国の権威付けが影響しているからと言って、その用語が絶対的に正しいわけではない。それを決めた審議会でも、現在の使われ方を無視できずに日和りながら決めているのだろう。 
  その後、理系に進んだが、人が決めたルールで動く文系に進まなくてよかったと思うことが何度もあった。理系なら神様の決めたルールに従うのでルールは不動、理系の人が発揮する無意識の非人間性はここから生じていると思う。